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執筆者の写真尚志館管理人

とある空手家の黙示録

※これをお読みになる前には、事前にこちらの記事をお読み頂くことをお勧めします。


この記事はとある空手家の半生を基に、彼が道場の指導員を目指しスターダムに駆け上がっていくその歴史を記した愛と感動の物語である。


 

Y之は驚いた。自身の空手道の歴史を振り返り、小学5年生からの12年、そして務め人となってからの9年、併せて21年もの月日を費やしていたことを。そして人生の半分を費やす年月でありながら、改めて"空手とはそして己とは何か?"との答えに辿り着かぬことを悟った康之であった。そこで、自らの歴史を振り返る為にペンを取った。


プロローグ:回顧

彼は幼少期太っていた。そんな我が子を案じた両親はスイミングスクールへ通わせることにする。スクールでは一定の技術を習得したものの、選手として一線を張れる器でもないことを自らも悟っていたことから、練習にも身が入らず毎日遊び呆けていた。両親は水泳を辞めて太る事を危惧し、当時流行だったテニス界への転身も案じたが、内向的だった性格を打破させるべくとの決意から、昭和末期にはまだ習い事としては珍しかった空手を勧め、彼もそれを受け入れた。


中学生まで週1のペースで松濤館流の道場に通い、世間では粗暴なイメージの強い空手にありながらも、平和に技術を習得していった。

その後高校では地元相模原市の空手道部で剛柔流を、大学では空手部で再び松濤館流(空手協会ではないが限りなく近い)を学び、青春時代を空手に捧げることになる。

社会人になり7年程のブランクは空いたが、盛岡市在住の時代には和道流を、新潟市に移り空手協会(新潟支部)、更に福岡市に移っては糸東流(数週間)を学ぶ。

ここで彼は空手道四大流派を全て体験している事に気付き、当時の稽古を思い出しながら内心でほくそ笑むのであった。


第一章:邂逅

大学では土木工学を専攻していた。工学部空手部の3年生となり、部の主力層となるが、やはりこの手の部活につきものである新規部員獲得の難航、そして体育会系の理不尽なノリについていくことができない脱落者が続出し、10名に満たないチームとなっていた。

そんな中、"全日本理工科系大学空手道選手権大会”に団体組手の先鋒として出場し、見事優勝を手にした彼は、仲間らとともにその喜びを分かち合った。


「信は力なりです。泣かせてください。思い切り泣かせてください。勝ったぞー!!!!!」


その後社会人となり首都圏勤務となった2011年、横浜市内に拠を移し、仕事漬けの毎日を送っていた。そんな中、ふと立ち寄った区役所で彼は1枚のチラシを目にする。

それは尚志館のボランティア空手教室のものだった。


「よし、ここにしよう・・・」


早速妻に連絡をし、子供を体験入門させるよう彼女に手筈を整えさせる。

そう言うと聞こえはいいが、要は子供を"ダシ"に道場破りを試みようという腹だった。

だから決して自分自身は表に出ない。勝負の前に易々と手の内は明かさない、という訳だ。


しかしいざ道場に赴いた彼は己の目を疑った。

看板ごと頂こうとしたその道場では、眩しいほどの後光が差す師範と共に、大人も子供も愉しく稽古に励んでいるではないか。いつの間にか心が洗われるような思いで師範の熱い人柄に惚れ込み、当初の目的は脆くも崩れ去っていくのであった。


そうして尚志館に門下生として入門した彼は、師範の指導に引き込まれ、いつしか師範の熱気にほだされた康之は、気付くと己もいつの間にか指導員となっていた。


第二章:転進

こうして順調に協会指導員としてのキャリアを積み始めた彼は、ふと気付く。


『俺に"得意形"と呼べるものはあるのだろうか・・・?』


学生時代は代々団体形で演じていた観空大ばかり稽古をしていた。

彼は焦った。そもそも四大流派を全て体験したと言いつつ、その実余り形を知らない。

1年にひとつずつでも良いから形を覚えていこうと心に誓った。


第三章:終着

彼が空手のキャリアを振り返る時、忘れられないことがある。

学生時代、先輩からの問いかけには全て『押忍』で返答せざるを得なかった(時代があった)。彼は数々の無理難題に対し、嫌な時、疑問に思った時、納得した時などシチュエーションに合わせて『押忍』を使いこなしていた。これが世に言う『押忍 五段活用』である。


しかしこの経験は、彼が社会人になり、コンビニ店員や駅員、会社の上司にまでも暫くの間『押忍』で返事をする程に体に刻み込まれることになってしまう。


そんな忘れたい思い出だけではなく、空手を通じ彼は大人子供問わず多くの仲間を得た。


Y之「先生、手って字、十書いたら十手みてぇだぜ。百書いたら・・・」

克尚「百と言わず雲に届くまで書いてみろ。そしたら雲手だな。」


今後もこの仲間達から心に多くの喜びと感動を得ていくのだろう。


そして彼は思い返す。日々辛かったこと、もうダメだと思った事も今となっては全て笑い話にできる良い思い出だという事を。


克尚「お前らゼロか?ゼロの人間なのか?何をやるのもいい加減にして、一生ゼロのまま終わるのか?それでいいのか?お前らそれでも男か?悔しくないのか!!」

Y之「悔しいです。今までは負けるのがあたり前だと思っていたけど、にやついてごまかしていたけど、今は悔しいです」

克尚「それでどうしたいんだ?」

Y之「勝ちたいです!」

克尚「よーし、よく言った。俺が必ず勝たしてやる!そのために俺がこれからお前を蹴る!下段払いしてみろ、歯を食いしばれっ!」

Y之「えっ?」


そして彼はいつの日か気付く。

道場、体育館、試合会場、至るところで気合いを出した。最初は人前で声を発することが羞恥心だったが、発する事で周りを取り込み、やがて発しない事が羞恥心となっていった。

こうして彼は沢山の気付きの中から空手に対する一つの答えを見出す。


『空手は人生そのものだ。受け/突き/蹴りに対する執着心が勝利を呼ぶように、最後まで諦めない執着心が人生には必要なんだ』

指導員として子供達を何とか上達させてあげたい。だがその一方で空手を楽しんでも貰いたい。厳しさと楽しさ、相反するようだが厳しい稽古を乗り越えたところに楽しさがやって来る。彼は時として心を鬼にし、指導員として見えない敵と立ち向かっていたのであった。


「空手は道場みんなでやるもんや。お前一人でやるもんやない。人の心を思いやるということ。それが愛というもんや。相手を信じ、待ち、許してやること。わかったかY之。」


大人も子供も一緒に本気になって稽古できる、そんな当たり前と思うようなことを当たり前のように実践している空手道場、それが尚志館であり、そんな中に身を置いている己は幸せ者だと感じていた。


こうして彼はこれからも尚志館と共に空手の道を歩み続け、新たな答えを探し続ける・・・


田嶌先生学生時代
母ちゃん、俺空手で生まれ変わるよ!


エピローグ:道場生(我が子)たちへ贈る言葉

「確実にミスしない方法が一つだけあります。何もしないことです。生きてて何かすればミスをするのは当たり前です。人間には失敗する権利があります。さあ、どんどんミスをしてのびのびと空手をしましょう。」


「今からだって遅くないぞ。お前さえその気になれば、空手だってなんだってやれるチャンスはいくらでもあるんだ!」


 

如何だったでしょうか。Y之さんがどなたかは分かりましたか?

この物語は、指導員のY.Tさんから頂いたアンケートの回答に添付されていたもう一つの回答を、出来るだけ原文のテイストを残しながら、管理人が手を入れてみました。

どうせ剛柔流をかじったなら、手のくだりは百じゃなくて百八じゃなのいか・・・とかも思ったのですが、その辺は原文を活かしております。

(壱百零八手と書いて剛柔流最高峰と呼ばれる形の"スーパーリンペイ"と読みます)


ご本人のリクエストでは『スクールウォーズ風』との事でしたが、私の作文力ではどうも簡単にはその雰囲気は出せなそうです・・・薄っぺらい文章になってたらごめんなさい!



それにしても、管理人の無理なお願いに対し、いつも期待値以上のリターンを提供して下さる田嶌先生には感謝せざるを得ませんね。

あ、言っちゃった。でも皆さんもうお気づきでしたよね。(笑)


来週からは新年度です。県大会まであと1か月、失敗するなら今ですよ!

反省点を出し切って、後悔の無いように頑張ってください!!



さて、来週はまた普段のブログに戻ってある方からの応援記事をお届けする予定です。

お楽しみに!ではまた来週!!

今週も管理人がお届けしました!


押忍

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