皆さんこんにちは。管理人です。
今週はタイトルの通り、ある2人の人物について触れてみようと思います。
日本空手協会の流派でもある松濤館流は、舩越義珍先生によって始められたというのは、既に皆さんもご存じだと思います。
その義珍先生が沖縄から上京され、空手が普及していくプロセスには、大学の空手部が大きく関わっていきます。
手始めに慶応義塾大学と東京大学で空手部(発足時の名称は同好会や研究会など)が設立され、その後各大学に広がっていったらしいのですが、それらの中には義珍先生の直弟子でもある三男の義豪先生が共に指導に当たったところもあったそうです。
その一つが拓殖大学であり、そこで学んだ中山正敏先生が卒業後に早稲田や慶応の船越門下生と共に設立したのが日本空手協会です。
協会や松濤館流の歴史については、また別の機会があればご紹介しましょう。
因みに読み方は父の義珍(ぎちん)先生に倣って義豪(ぎごう)先生と呼ぶ方が多いですが、戸籍上の読み方は『よしたか』だそうです。
文献の記録によると、沖縄で生まれた唐手が本土で空手として伝えられる中で、その動きをより体育教育に合うように改良されていく訳ですが、例えばピンアン(平安)の初段と二段を習熟のし易さを考慮して入れ替えられたのと同じように、大学の4年間という限られた時間で空手の基本的な動作を習得するための稽古法が模索されていきます。その一つが松濤館流の代名詞ともなっている腰を深く落とした姿勢であり、こうした変化については、義豪先生の影響によるところも大きかったと言われています。
例えばこの1枚目の写真は観空大と思われる演武をしている、本土に渡られた頃の義珍先生です。(義珍先生は観空が得意形だったと言われています)
そして2枚目は、義豪先生とお弟子さんによる平安二段の分解と思われる写真です。
どちらも後屈立ちのはずだと思われますが、比べると分かるように2枚目の方が全体的に腰の位置が低いですよね。
こうして松濤館流の基礎が出来上がってきた中で先の通り中山先生を中心に日本空手協会が生まれ、有名な著書『ベスト空手』のなかで紹介される基本的な立ち方などに繋がっていくことになります。
これが1人目の"ヨシタカ"さんですが、もう1人は誰だか皆さんご存知ですよね?
そう、もちろん我らが師範の田中克尚(よしたか)先生です。
カッコイイ写真は沢山あるのですが、敢えて同じ後屈立ちの写真を載せてみました。
思わずイケメンな顔に目を奪われがちですが、見てほしいのは立ち方です。(笑)
義豪先生の方は重心が中心寄りなのは、その後の進化によるものなのかも知れませんが、腰を落とした立ち方は、この頃から変わっていないのが見て取れます。
琉球で生まれた唐手が空手と名前を変えた後、昭和初期に体系化され、90年近くが経った現代でもその教えが進化をしながらもその源流を守って脈々と受け継がれているというのは素晴らしいことだと思います。正に『伝統』武道です。
現代で空手を学ぶ皆さんと繋がる尚志館と松濤館の2人の『よしたか先生』の一致は偶然だと思いますが、無理矢理とは言えこじつけてみると、何となく代々受け継がれる空手道100年の歴史みたいなものが感じられたりしませんか・・・?
こういうのにロマンを感じちゃうのは管理人だけですかね???
この話は、私が夏頃にとある武道雑誌を読んだ際、偶然義豪先生の記事を見つけて、思い付きでネタ切れ用のコラムとして下書き放置されていたものが、ようやく陽の目を浴びたよ!というお話でした。
因みにその雑誌には、全国大会後という事で協会の特集が載っているのですが、その中に皆さんもご存知の方が2名ほど写真に写っていました。その件はまた別の機会(=ネタ切れ時)にでもご紹介したいと思います。
という事で、コラムも一区切りとなり今週で一旦閑話休題、来週はオジサマ達の全国大会、熟練者大会の結果についてレポートできれば・・・と思っております。
やっぱりネタの少ない時期用にもう何個かコラムの在庫用意しておこうかな・・・
押忍
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